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信長を11年間苦しめた石山の戦い

本願寺挙兵 永禄11年[1568]、将軍足利義昭を奉って入京した時、石山本願寺に軍資金として五千貫を 差し出すように命じた。本願寺第11代法主、顕如はこれに従ったが、信長が本願寺寺地に城を築きたいから明け渡せと言って来た時は拒否した。信長は、中国四国征伐を進めるにあたり瀬戸内海航路に便利な本願寺の地が欲しかった。 しかし元亀元年7月、顕如は阿波の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と手を結んだ。三好三人衆は13000の兵を率いて、天満の森に陣を張り、野田・福島の砦を固めて、 信長に反撃する構えを見せた。8月20日に岐阜を出発し25日河内に入り石山本願寺を取り囲んだ。顕如が紀州の門徒衆に出兵を言い渡したのは9月5日。翌日には全門徒に檄を飛ばし信長を滅ぼすよう命令した。もし協力しない門徒がいれば、長く門徒を破門すると記されていた。当時破門というのは、必ず地獄に落ちてしまうだろうと言われ、門徒達にとってはとても恐ろしいものであった。 全面戦争 9月12日、本願寺は信長に対して兵を起こした。16日には、浅井長政・朝倉義景が30000の軍勢を率いて比叡山に陣を敷いた。戦いは一進一退だったのだが、信長が浅井・朝倉に手一杯の時、伊勢長島一向一揆が始まった。一揆勢は尾張小木江城を陥落させ、城主で信長の弟の織田信興を、11月21日に自刃させた。追い詰められた信長は、正親町天皇や将軍 足利義昭に頼み、石山本願寺・浅井・朝倉と和議を結んだ。 信長 ようやく長島一向一揆を下す。 元亀2年[1571]5月、信長は伊勢長島一向一揆を攻める。 しかし、このときは迎えうつ下間豊前の戦術に陥り、氏家卜全はは戦死、柴田勝家は負傷し手痛い敗北を味わった。信長は門徒に対しさらに憎悪を燃やし、比叡山を焼き討ちにした。 このとき信長は最大の危機が近づいていた。甲斐の武田信玄が45000の大軍勢を率いて西上してきたからだ。 だが信玄は悲願の天下を取る前に、天正元年[1573]4月、信州駒場で没した。 最大の危機を戦わずして乗り越えた信長は、同年9月、信長は60000のの大軍勢で、2度目の 伊勢長島一向一揆討伐を始めた。本拠の長島城を攻める前に、支城がある桑名方面の門徒や土豪たちを全滅させようと考えた。北伊勢方面の門徒達は城や砦にこもって