一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い前哨戦

寿永3年[1184]2月4日、源範頼が大手軍56000騎を、源義経が搦手軍10000騎を率いて京を出発し摂津へ下った。平氏は福原に陣を敷き、その周りに強固な防御陣を築いて待ち構えた。
同日、搦手軍を率い丹波路を進んでいた義経は、播磨国三草山の戦いで、平資盛・平有盛の陣に奇襲を仕掛け、勝利する。進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越で軍を二分して、
安田義定・多田行綱らに大半の兵を与え平通盛・平教経の10000騎が守る夢野口へ向かわせた。
一方、義経は僅か70騎だけを率い、西へ転進した。

開戦 生田の戦い 

2月7日払暁、熊谷直実・熊谷直家・平山秀重ら5騎が西城戸に名乗りを上げて、合戦が始まった。
5騎は平氏の兵に囲まれるが奮戦。しかし、兵力差は明らかで討ち取られそうになった時に土肥実平率いる7000騎が駆けつけ激戦となった。

午前6時、平知盛・平重衡の平氏軍主力が守る生田口には、範頼率いる梶原景時・畠山重忠以下、大手軍50000騎が布陣。平氏軍は白兵戦を展開。範頼軍は河原高直・藤田行安らが討たれ、死傷者が続出し攻めあぐねた。しかし、梶原景時が奮戦し平氏軍を押し返した。

義経と分かれた、安田義定・多田行綱も夢野口を攻撃する。

生田口・塩田口・夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏側の守りが堅く突破できなかった。

逆落とし

精鋭70騎を率いる義経は、断崖絶壁を駆け下りる決断をする。
  鵯越の逆落とし

崖を駆け下った義経たちは、平氏の陣に火を放った。予想もしなかった方向からの攻撃で
平家の陣は大混乱に陥った。平家の兵たちは我先にと海へ逃げ出した

平家敗走

混乱が波及して、平忠度が守る塩田口も突破される。
生田口では副将の平重衡が8000騎を率いて、安田義定・多田行綱に攻められ、窮地に陥っていた夢野口を救援に向かった。午前11時、範頼は大手軍全軍に総攻撃を命じた。
平知盛は奮戦するが、支えきれなくなり遂に、敗走を始めた。
沖合いの船にいた、安徳天皇・建礼門院・総大将 平宗盛は敗北を悟り屋島へと向かった。
平忠度は逃げようとしていたところを、岡部忠澄に組み伏せられ、討ち取られた。
合戦の一番乗りである熊谷直実は、敵を探していると、馬に乗って海に入り沖合いに逃れようとする平氏の武者を見つけた。直実はその武者を呼び戻すと、武者は陸に戻ってきて直実と組むが、直実には敵わず組み伏せられた。
直実は首を取ろうとするが、武者の顔をみると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。
その武者は、平清盛の弟平経盛の子、平敦盛16歳と名乗った。
直実の子も、平敦盛と同じ16歳で直実は逃がそうとするが、梶原景時ら他の源氏の武者も迫ってきていたので、到底逃げることはできないと、泣く泣く平敦盛を討ち取った。
直実はその後、武家の無情を知り高野山に登った。
 平敦盛を呼び止める熊谷直実

また敗走した、平重衡は梶原景時に捕らえられた。

この戦いで一門の多くを討たれ、平氏は屋島へと逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。


平氏一門の戦死者

平通盛・平忠度・平経俊・平清房・平清貞・平敦盛・平知章・平業盛・平盛俊・平経正・平師盛・平教盛

平重衡は捕虜となった。


一の谷の合戦その後

後白河法皇は捕虜になった平重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、平宗盛はこれを拒否した。
合戦に勝利した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器の奪回には失敗しており、
源平の合戦は屋島の戦い・壇ノ浦の戦いと続いていくことになる。



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