大坂夏の陣 木津川口の戦い・鴫野の戦い・今福の戦い
木津川口の戦い
幕府軍 豊臣軍
蜂須賀至鎮 明石全登(不在)
浅野長晟 樋口雅兼
池田忠雄
3000以上 800
木津川口の戦いは、豊臣家と江戸幕府の間に起きた戦いの大坂の陣のうち、慶長19年[1614]末に発生した大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦い。
豊臣方は、大阪城から海に至る要塞である木津川口に砦を築き、明石全登を守将に800の兵で守備させていた。
11月18日、幕府軍の蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないことに不満を抱き
、11月19日未明、抜け駆けして単独攻撃を行った。当時、明石全登は大阪城におり不在だったため守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。
遅れて予定通りに進軍していた浅野長晟は蜂須賀至鎮の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとして多数の溺死者を出してしまい、戦闘にも間に合わなかった。
鴫野の戦い
幕府軍 豊臣方
上杉景勝 井上頼次【戦死】
丹羽長重 大野治長
堀尾忠晴 竹田永翁
榊原康勝 渡辺糺
6300 2000+援軍12000
大阪城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田園という地形だった。
豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置し、井上頼次に兵2000で守らせていた。
徳川家康は今福村に砦を築くため、今福・鴫野両柵の奪取を命じた。
鴫野へは上杉景勝勢5000、後詰として堀尾忠晴・丹羽長重・榊原康勝が向かった。
11月26日早朝、上杉景勝が鴫野の柵を攻撃、上杉麾下の安田能元・須田長義らにより柵は占領され、井上頼次は討ち死した。
豊臣軍は大野治長ら12000が来援し反撃に転じた。上杉勢一番手と二番手水原親憲らが崩れかかりそうになったが、安田能元隊が応援に駆けつけ、豊臣軍を撃退した。
今福の戦い
幕府軍 豊臣軍
佐竹義宣 矢野正倫【戦死】
上杉景勝 飯田家貞【戦死】
堀尾忠晴 木村重成
榊原康勝 後藤基次
1500+援軍1000 600+援軍3000
大阪城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田園という地形だった。
豊臣方は今福村に三箇所の堀切と四重の柵を設置し、矢野正倫・飯田家貞にそれぞれ兵600で守らせていた。徳川家康は今福村に砦を築くため、今福・鴫野両柵の奪取を命じた。
今福へは佐竹義宣勢1500が向かった。
11月26日夜明け、佐竹義宣は今福を攻撃、佐竹麾下の渋江政光・戸村義国らにより四重の柵は全て占領され、佐野正倫・飯田家貞は討ち死した。
豊臣軍は木村重成が来援し、佐竹勢を押し返したがその後膠着状態となった。
その様子を大阪城から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。
後藤が駆けつけ木村を支援しながら戦闘を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
渋江政光は第一柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討ち死にしたため佐竹勢の先鋒は潰走、佐竹義宣は大和川対岸で戦っていた上杉勢に救援を求めた。
それを受けた上杉景勝・堀尾忠晴・榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出てきて銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退した。
この戦いにおいて、将軍徳川秀忠から、佐竹家中の5名に感状と褒美が与えられている。
前半 開戦直後の3戦 大坂冬の陣 木津川口の戦い・鴫野の戦い・今福の戦い
後半 大坂冬の陣 博労淵の戦い・野田福島の戦い・真田丸の戦い
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