長篠の戦い 意外な武田軍最大の敗因とは
長篠の戦い、その真実とは
前回 「新説⁉︎ 長篠の戦い」
見てない方はこちらから見るのをオススメします。
前回の話の続きなので理解しておいた方がわかりやすいです。
追い詰められる長篠城
天正3年5月1日、奥平信昌・松平景忠らが籠城する、長篠城を包囲した。
武田軍は、竹束をもって仕寄をつけ、昼夜を分かたず城を攻めた。
勝頼は、医王寺砦を本陣とし、長篠城を見下ろす大通寺、天神山、篠場野、岩代、有海
などに軍勢を展開させ、城を完全に包囲した。また付城として、鳶ヶ巣山砦【武田信実】
、姥が懐砦【三枝昌貞】、中山砦【那波無理助】、久間山砦【和気善兵衛】、君ヶ伏床砦
【和田信業】に軍勢を配置した。
武田軍が長篠城を攻撃を開始した頃、信長は河内で三好氏、石山本願寺と対戦していた。この時信長が動員した兵力は、畿内近国から100000余にのぼり4月14日には石山本願寺を
攻撃した。4月17日には和泉国堺に近い新堀城を陥落させ、三好家臣、香西越後守・
十河因幡守・三木五郎大夫ら170余人を打ち取った。このため、高屋城に籠城していた
三好康長は抵抗を諦め、降伏した。こうして長期に及ぶと思われた三好氏・本願寺との
合戦はわずか半年で終了し、4月21日には信長は京都に引き上げた。
この間、武田軍が三河の諸城を攻め落とし、選曲が有利であるという情報は畿内近国にも届いており、六角承禎は5月4日付の穴山梅雪宛書状でこれを喜んでいる。
信長は、4月27日に京都を発し、4月28日には岐阜に帰陣した。越前一向一揆は今回の、
武田軍の動きには、呼応しなかったので、越前方面から前田利家らを召集し、合流させた。浅井・朝倉両氏を滅ぼした信長は相当数の兵力を武田攻めに動かすことが可能となった。
一方の勝頼は、先代信玄以来の強敵、上杉謙信を背後に抱え、その抑えとして武田軍では最大規模を誇る、川中島衆を海津城代、春日虎綱とともに残留させねばならなかった。
信長動く
5月13日、岐阜を出陣した信長は、5月14日、三河岡崎城に入場した。
長篠城では、武田軍の激しい攻撃が続いており、長篠城兵はついに本丸まで追い詰められた。城主奥平信昌は鳥居強右衛門尉を使者として脱出させ、家康に援軍を要請することを決めた。5月15日夜に鳥居は三河岡崎城に到着し、信長・家康に謁見した。そこで信長は、長篠城を救うため出陣することを約束した。鳥居はそのまま武田軍の長篠城包囲陣に紛れ込み、武田逍遥軒信綱の部隊で、竹束を背負いながら城へ走りこもうとしたところを捕縛され、勝頼の前に引き出された。勝頼は、
「磔にするから、信長は出陣しないので開城せよと言えば命を助け、知行を与える」
というと鳥居は素直に応じた。そこで武田軍が鳥居を磔ににすると、勝頼が言ったこととは逆の信長・家康は救援に来るということを伝えため、武田軍の兵が鳥居を刺殺した。
鳥居はただの足軽だったが、この勇気ある行動は武田軍を窮地に陥らせた。
両軍の布陣
天正3年5月18日、信長は志多羅郷の極楽寺山に本陣を構えた。息子信忠は新御堂山に布陣した。この志多羅郷周辺は、窪んだ地形をしており、信長は武田軍に見えないよう、
30000の兵をここに隠した。確かに信長・信忠が布陣した極楽寺山近辺は、武田軍からは断正山が邪魔になって全く見通せない。
家康は先陣として古呂道坂の上の高松山に布陣し、有海原で連吾川を前に当てて、織田軍の滝川一益とともに馬防柵の敷設を開始した。
織田徳川連合軍の接近を知った勝頼は軍議を開き、対応の検討に入った。軍議では、重臣
山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、小山田信茂らが、敵は大軍なので合戦は不利であるから撤退するのが得策と進言し、もし織田徳川連合軍が追撃してきたら信濃国内におびき寄せ攻撃すれば勝利は間違いないと述べた。これに対し勝頼と長坂釣閑斎光型・
跡部大炊助勝資は、敵に背を見せるのは恥辱として賛成しなかった。
そこで馬場信春は、長篠城を攻め落として勝頼を城に移し、武田信豊・武田逍遥軒信綱ら全ての御親類衆が城の背後を抑え、残る全軍が旗本の前備えとなって寒狭川を前に立てる
そして山県昌景・馬場信春・内藤昌秀の三人が寒狭川を越え、敵と小競り合いをしながら長期戦に持ち込めば、武田軍は信濃からの補給路を確保できるが、信長は河内・和泉の人々を動員しているため長陣ができず、やがて撤退するだろうと述べた。
すると長坂釣閑斎と跡部大炊助勝資は、信長ほどの大将がそう簡単に撤退することはありえないと言った。明らかな意地張りである。
馬場信春 内藤昌秀 山県昌景
原昌胤 土屋昌続 小幡信貞
なぜ勝頼側近は重臣たちの意見に、徹底的に反対したのか。その理由は勝頼の家臣たちは、信玄の時代にはさほど優遇されてはいなかったことにあるだろう。信玄が優遇したのは武田四天王と呼ばれた、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・春日虎綱ら信玄に若くからつかえたものたちであり、また武田24将の中にも長坂釣閑斎光型や跡部大炊助勝資は出てこない。山県昌景らの重臣たちは合戦経験が豊富で勝頼側近たちとは比ベものにならなかった。そのため信玄は彼らを重要視した。しかし勝頼の立場からすると、重臣たちは信玄の遺産でしかなく、偉大な父を超えるには自分の立場を確立する必要があった。
そこで勝頼は、自分の意見を常に肯定する側近たちの言うことを聞くようになり信玄以来の重臣たちの意見を聞かなくなった。これにより重臣と勝頼側近たちの折り合いは悪くなった。これも長篠の戦いの敗因の一つと考えられるだろう。
決戦を選択した勝頼は、長篠城包囲のため、高坂源五郎【春日虎綱の嫡男】・室賀信俊・小山田昌成ら2000余、鳶ヶ巣山砦以下の付城群の軍勢2000余を残留させると、
天正3年5月20日、全軍11000余を率いて滝沢川を越え、有海原に進出した。
信長は武田軍に察知されぬように、30000の軍を隠した。そして、滝川一益・羽柴秀吉・
丹羽長秀の軍勢のみを有海原に進出させた。
武田軍の布陣
右翼
馬場信春【岡部・麻績・早川・小幡・金丸】
土屋昌続【小笠原・草間・常田・矢沢・桜井】
一条信龍【青柳・石黒・和田・内山】
真田信綱・昌輝【鎌原・湯本・海野・羽尾】
穴山信君
中央
武田信豊【青木・跡部・望月】
武田逍遥軒信綱【会田岩下・山口・依田】
小幡信真・昌高・又八郎
安中景繁「安中氏は、西上野において小幡氏に次ぐ軍事力を持つ有力国衆だった。」
左翼
内藤昌秀【多比良・白倉・高山・木部・倉賀野・後閑・長根】
小山田信茂【加藤】
甘利信頼【米倉・春原・畠野】
跡部勝資
原昌胤「120騎」
山県昌景【朝比奈・松尾小笠原・相木依田・田峯菅沼・長篠菅沼・大熊・三浦・曲淵】
「山県隊は、西上野小幡〈500騎〉、真田〈350騎〉に次ぐ兵力だった。その兵力は300騎で
駿河・遠江・三河国衆の多くを相備えとしていた。」
遊軍
仁科盛信
葛山信貞
織田徳川連合軍の布陣
右翼
徳川本隊【徳川家康・徳川信康・本多忠勝・榊原康政ら】
佐久間信盛
水野信元
「佐久間信盛の兵力は重臣柴田勝家を上回る7000人〈柴田勝家は5000人〉とされ、水野信元も3000の兵を率いる三河の大身と記録されている。」
中央
羽柴秀吉
前田利家
滝川一益
丹羽長秀
左翼
織田信忠麾下の美濃・尾張勢
武田軍の布陣
右翼
馬場信春【岡部・麻績・早川・小幡・金丸】
土屋昌続【小笠原・草間・常田・矢沢・桜井】
一条信龍【青柳・石黒・和田・内山】
真田信綱・昌輝【鎌原・湯本・海野・羽尾】
穴山信君
中央
武田信豊【青木・跡部・望月】
武田逍遥軒信綱【会田岩下・山口・依田】
小幡信真・昌高・又八郎
安中景繁「安中氏は、西上野において小幡氏に次ぐ軍事力を持つ有力国衆だった。」
左翼
内藤昌秀【多比良・白倉・高山・木部・倉賀野・後閑・長根】
小山田信茂【加藤】
甘利信頼【米倉・春原・畠野】
跡部勝資
原昌胤「120騎」
山県昌景【朝比奈・松尾小笠原・相木依田・田峯菅沼・長篠菅沼・大熊・三浦・曲淵】
「山県隊は、西上野小幡〈500騎〉、真田〈350騎〉に次ぐ兵力だった。その兵力は300騎で
駿河・遠江・三河国衆の多くを相備えとしていた。」
遊軍
仁科盛信
葛山信貞
織田徳川連合軍の布陣
右翼
徳川本隊【徳川家康・徳川信康・本多忠勝・榊原康政ら】
佐久間信盛
水野信元
「佐久間信盛の兵力は重臣柴田勝家を上回る7000人〈柴田勝家は5000人〉とされ、水野信元も3000の兵を率いる三河の大身と記録されている。」
中央
羽柴秀吉
前田利家
滝川一益
丹羽長秀
左翼
織田信忠麾下の美濃・尾張勢
鳶ヶ巣山砦への奇襲
信長の命を受けた酒井忠次は、松平伊忠・松平家忠・松平康忠・松平清宗・西郷吉員・
牧野康成・本多広孝ら2000人の徳川勢と、金森長近・佐藤秀方ら2000人の織田勢を率い、合わせて4000人ほどの軍勢となった。奇襲部隊は5月20日午後8時に出発した。
迷うことなく全軍が「ボボウジ」で勢ぞろいすると、軍勢を分け、長篠城を囲む砦群にそれぞれ接近した。また設楽越中守は酒井らと別れ、舟着山麓で伊原に布陣し、逃げてくる武田軍を待ち伏せした。5月21日午前8時、酒井軍は密かに接近すると突如、武田方の前で旗を立て、鉄砲を撃ちかけた。砦を守っていた武田信実らは油断していたため大混乱に陥った。それでも武田方は善戦し、鳶ヶ巣山砦では、武田信実らと酒井忠次らが砦を奪い合い、武田方は3度砦を奪い返したが多勢に無勢。ついに壊滅した。
この戦いで武田信実・三枝昌貞・那波無理助・飯尾助友・五味貞氏が戦死し、救援に向かった和田信業も戦死した。武田方は壊滅し、生き延びた兵達は、久間方面に逃げたが、
伊原で待ち伏せしていた設楽越中守の軍勢に討ち取られた。
長篠城の抑えとして配備された武田軍の高坂源五郎・室賀信俊らの軍勢は、退却しようとしたが、城内の兵が追撃してきたため、高坂源五郎ら200余が討ち取られた。
だが酒井軍も松平伊忠ら300人が戦死した。松平伊忠は武田軍の、小山田昌成が討ち取った。これにより武田軍の、長篠城包囲陣は壊滅し武田軍は背後を絶たれた。
設楽ヶ原決戦
背後を絶たれた、武田方は敵の主力を撃破する以外勝機がなくなった。武田軍の猛攻撃が開始されるのは背後の味方が壊滅したのを知ってからである。
まず定説のような突然、騎馬で攻め寄せるのではなく、鉄砲衆や弓衆が前に出て、
織田徳川連合軍の鉄砲衆や弓衆と射撃戦を展開した。
茶屋四郎次郎が武田軍の鉄砲の流れ弾を受けており、武田軍も鉄砲での戦闘も行っている。さらに武田軍は、懸命に逆茂木や馬防柵の除去する努力をした。逆茂木や馬防柵が
あると、武田軍が織田徳川連合軍に攻めかかることができないからだ。
だがその作業は、武田軍の前進を止めることになり、敵の標的と化した。
結果、織田徳川連合軍の鉄砲衆や弓衆と激しく撃ちあう、武田軍の鉄砲衆や弓衆と、
逆茂木や馬防柵を除去する足軽などに犠牲者が増えていった。
織田徳川連合軍の鉄砲衆や弓衆は身隠しがあったが、武田軍は隠れるものがなく、まともに、敵の銃撃を受けた。そしてそれは、武田軍の諸隊が援護射撃を失うことを意味していた。
午前11時、武田軍の先鋒、山県昌景の部隊が徳川軍の部隊に突撃を開始した。
ここから武田軍は、4時間にわたり猛攻撃をし続ける。
武田軍の諸隊は交代しながら織田徳川連合軍に波状攻撃を仕掛けた。だが援護射撃を失っていた武田軍は、前傾姿勢でなおも前進を続けたが、敵陣に接近するまでに甚大な被害を蒙っていた。それでも徳川軍に攻めかかると、徳川軍は陣地を明け渡し柵内に引き上げたが、すると攻め込んだ武田軍は雲霞のような銃弾にさらされた。たまらず引き上げようとすると、徳川軍はすかさず追撃し、武田勢に被害を与えた。
これを繰り返すうちに、武田軍の諸隊は次第に消耗し始めたのである。
武田軍主力の攻撃は、徳川軍に集中したが、中央や右翼も、織田軍の注意を引き付け、
左翼の攻撃を援助するべく攻撃に向かったが、左翼と同じく兵力をすり減らしていった。
この合戦のさなか、柵際では武田家重臣土屋昌続が戦死し、軍勢のほとんどが甚大な被害を受けていた。
しかしこの屏風絵を見て欲しい。織田徳川連合軍の柵からの鉄砲の連射にもかかわらず、
柵まで攻め寄せる武田軍。柵内に逃げ込む、織田軍の姿も見える。
また内藤昌秀の軍勢は、三重の柵をすべてうち破り本多忠勝勢に斬りかかっている。
山県隊、原隊、内藤隊、小幡隊、土屋隊、馬場隊、真田隊は織田徳川連合軍を押していた時間もあったが、御親類衆の筆頭である、穴山信君が独断で撤退し始め、敵味方ともに驚いたという。穴山信君が撤退したのは、もともと彼は、合戦に反対であったことが大きな理由だろう。ともかく穴山信君の撤退は、敵陣に突入していた山県らを孤立させたため、
勝機はなくなった。
設楽ヶ原崩れ
武田軍は勝頼本陣まで退却し、武田信豊や小山田信茂らが固まるように布陣した。これを見た織田徳川連合軍は柵から一斉に押し出し、武田軍に襲いかかった。武田軍の残存部隊はここが勝負どころだと防戦したが、多勢に無勢。ついに総崩れとなった。
山県昌景や真田信綱などの主な武田軍の武将は、この追撃戦の最中に戦死した。勝頼を逃がすために踏みとどまり、戦死したと考えられる。
武田軍は2時間にわたる殿戦を展開した。勝頼を逃がすため、重臣、馬場信春・内藤昌秀
・原昌胤が壮絶な討ち死にを遂げた。また勝頼の馬が途中で動かなくなったため、
河西肥後守が自らの馬を献じて勝頼を逃し、自らは勝頼の馬に乗って引き返し、戦死した。
長篠合戦で戦死した、武田兵は10000を超えた。
また武田軍将卒の戦死者は、
山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・土屋昌続・安中景繁・
小幡又八郎・望月甚八郎・山本菅助・横田康景・杉原正之・武田信実・那波無理助・
飯尾助友・五味貞氏・三枝昌貞・和気善兵衛・高坂源五郎・高坂又八郎
など114人にも及んだ。
武田軍の意外な敗因は
武田軍は鉄砲の導入にはとても積極的で、信長が鉄砲を50挺しか持っていなかった頃、武田は川中島の戦いで1000挺の鉄砲を使った記録がある。また東国戦国大名としても武田は最速で鉄砲を持っていた。しかし武だけの記録を見ると、鉄砲の弾が足りないことが深刻な問題だったようで、神社のお賽銭を煮潰して弾丸にした記録も残っている。
長篠の戦い跡では、鉄砲の弾が発掘されており、成分分析の結果、朝鮮や東南アジアの弾が多いことがわかった。
つまり、織田と武田との差を決定づけた差は交易力だ。
京都・堺という貿易の拠点を支配する信長に対し、武田は巨大勢力とはいえ京都・堺からは遠い。ここに武田が思うように鉄砲を使えなかった理由だろう。
武田勝頼
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