平知盛
平知盛
氏族 桓武平氏維衡流【伊勢平氏】父母 平清盛・時子
兄弟 平重盛・平基盛・平宗盛・徳子・盛子・平重衡・完子・平知度・平清房・御子姫君
妻 治部卿局
子 平知章・平増盛・平知忠・平知宗・中納言局
平氏全盛期
仁平2年[1152]、父清盛35歳の時に継室・時子のを母として生まれる。
同母兄の平宗盛6歳、異母長兄の平重盛15歳。翌年に平忠盛が死去し父清盛が平氏の棟梁となる。平治元年[1159]1月、8歳で従五位下となる。同年12月の平治の乱で清盛が勝者となり平氏一門と共に栄進していく。
永歴元年[1160]2月、武蔵国が知盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。
その後8年間同職にあった。武蔵国は河内源氏の勢力が強い地域であったが、平家家人を多く獲得した。
治承2年[1178]10月、同母姉妹である安徳天皇を出産、12月に立太子した。
治承3年[1179]2月、藤原殖子を母とする高倉天皇の第2皇子・後高倉院が誕生し、知盛に
養育が任された。
治承3年[1179]閏7月、平氏棟梁であった平重盛が死去した。異母兄平宗盛が新たな棟梁となり、知盛は同母弟平重衡と共に平宗盛を補佐する。
同年11月14日、後白河院との対立が頂点に達した清盛は数千騎の軍勢を率いて
治承3年の政変
を起こし、後白河院政を停止、名実ともに権力の頂点に立つ。
治承・寿永の乱
後白河法皇の第3子、以仁皇と源頼政は後白河法皇をの政治を復活させるため挙兵。
治承4年[1180]5月21日、以仁皇の配流が決定され、21日には知盛は園城寺攻撃の大将軍の
一人となる。反乱は平重衡・平維盛らにより短時間で鎮圧された。75歳の源頼政は宇治の平等院で自害し、17歳の以仁皇も逃げる途中、奈良で討ち取られた。
同年8月、源頼朝が挙兵し、10月の富士川の戦いで平維盛率いる平家軍は頼朝に大敗を喫する。
清盛の死と反乱の激化
同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した清盛の名により、知盛は甥・平資盛と共に
大将軍として出陣し、京都近郊の反乱軍を鎮圧した。
同時期に平重衡による南都焼き討ちがあり、反平家勢力は鎮圧された。
清盛は平宗盛を中心とした大規模な東国追討軍の派遣と、平重衡の九州派遣の作戦を考えていたが、治承5年[1181]閏2月4日、清盛は死去する。
同年3月、尾張国で数万の兵を抱えている源行家を倒すべく平忠度・平重衡・平維盛らの
大軍をもって尾張墨俣川で源行家軍を打ち破った。
北陸道平定のため平維盛を大将に平氏の総力を結集した大軍を派遣する。
しかし、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に壊滅的敗北を喫し、反乱軍は京を目指して進撃してきた。
木曽義仲を迎え撃つため、平忠度100騎を丹波へ、平資盛・平貞能1000騎は宇治田原に、
平頼盛は山科へ、知盛・平重衡2000騎は勢多にそれぞれ向かった。
しかし、摂津の多田行綱が西日本への海上ルートを封鎖する動きを見せると、平宗盛は
包囲される前に西国へ下向し態勢を立て直す方針に変更。7月24日各地に派遣されていた将は京へ呼び戻される。
一門都落ち
寿永2年[ 1183]、平氏一門は安徳天皇・三種の神器を擁し都を落ちる。
同年8月下旬、九州太宰府に入ったが、地元の豪族から攻撃されたため四国・讃岐屋島へと移った。この時、平貞能や平重衡系統の一族が平氏本隊から離脱した。
平氏反撃
知盛は全軍の総司令官として体勢の立て直しを図る。瀬戸内海の制海権を握る平氏は田口成良の協力のもと屋島に本営を置いた。
閏10月1日、平氏追討の院宣を受けて西国へ下向した木曽義仲を水島の戦いで破り、京へ追い返した。同年11月29日、室山の戦いでも源行家を破った。
勝利に勢いづく平氏軍は最前線を福原まで戻し、一ノ谷に強固な城を構えた。
そして、清盛の3周忌を前に一門・全軍を福原へ集結させつつあった。
2月7日、一ノ谷の戦いで知盛は大将軍として、源範頼率いる大手軍を迎え撃った。しかし
源義経の逆落としを受けた平氏軍は大混乱に陥り、知盛も海上へ逃れた。
この戦いで、知盛は嫡男・平知章、弟・平重衡は捕虜にされ、一門の有力武将の多く失った。
終焉
寿永3年[1184]8月、鎌倉から源範頼を総大将とする平氏追討の大軍が派遣される。
一ノ谷の戦いで大きな打撃を受けるも、平氏軍は讃岐屋島に城廓を築き、2箇所に陣を結び、平宗盛が屋島に、知盛は彦島に軍営を置いた。知盛は九州の兵を率いて門司関を固め
半年間追討軍の九州・四国への上陸を阻止した。
しかし、寿永4年[1185]2月19日、屋島の戦いで源義経の奇襲を受け、平宗盛たちは海上に逃れ、平氏は瀬戸内海の制海権掌握に重要な拠点であった屋島を失う致命的敗北を喫する。
さらに同年1月、源範頼は九州豊後に上陸し、2月1日には平氏方の原田種直を討ち取っており、彦島に追い詰められた平氏一門は海上で孤立した。
寿永4年[1185]3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉方との最終決戦に挑むが、田口成良ら
四国・九州の豪族の寝返りにあい、追い詰められた平氏一門は入水による亡びの道を選んだ。安徳天皇や二位尼らが入水し、平氏滅亡を見届けた知盛は、平家長と共に入水した。
享年34。
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