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大坂冬の陣 博労淵の戦い・野田福島の戦い・真田丸の戦い

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博労淵の戦い        幕府軍                 豊臣軍       石川忠総                平子正貞【戦死】       蜂須賀至鎮               薄田兼相       池田忠雄       5300                                                                          700      豊臣方は、木津川口砦と共に、木津川沿岸の守備のため博労淵に砦を築き、薄田兼相を 守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。 これに対し徳川家康は大砲で砦を攻撃するため、水野勝成と永井直勝に命じて狗子島に 仕寄(塹壕)を築かせた。仕寄は11月28日に完成し、水野勝成が家康に報告したところ、蜂須賀至鎮の家臣がこれを聞きつけた。蜂須賀至鎮は木津川口砦を水野勝成が落とす前に砦を落とそうと思い、敵の状況を正確に把握するため、荻を刈り取らせてほしいと 徳川家康に願い出て、それを口実に砦を落とそうと考えた。 ところ徳川家康は石川忠総に荻の刈取りを命じる。石川忠総は荻を刈り取った後、博労淵砦に銃撃を加えた。 それを知った蜂須賀至鎮は夜中のうちに木津川口砦に仕寄を構築し攻撃準備に取り掛かった。 11月29日、石川忠総が川を渡って進撃しようとしたが、ちょうど満潮時だったため渡河できなかった。そこで九鬼守隆から船3艘を借り砦に攻撃を仕掛けた。 蜂須賀至鎮も南方から攻撃を仕掛けた。 守将の薄田兼相は前夜から遊女屋に泊まり込んで不在だったため、統制が取れず、砦は 陥落した。留守将の平子正貞は、葦原に逃げ潜んでいたところを池田忠雄の家臣に見つかり討ち取られた。 野田・福島の戦い        幕府軍                 豊臣軍              九鬼守隆                大野治胤               向井忠勝                宮島兼与       小浜光隆       池田忠雄       戸川安達       千賀信親        6600    

大坂夏の陣 木津川口の戦い・鴫野の戦い・今福の戦い

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木津川口の戦い        幕府軍                 豊臣軍       蜂須賀至鎮               明石全登(不在)       浅野長晟                樋口雅兼       池田忠雄          3000以上                  800 木津川口の戦いは、豊臣家と江戸幕府の間に起きた戦いの大坂の陣のうち、慶長19年[1614]末に発生した大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦い。 豊臣方は、大阪城から海に至る要塞である木津川口に砦を築き、明石全登を守将に800の兵で守備させていた。 11月18日、幕府軍の蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないことに不満を抱き 、11月19日未明、抜け駆けして単独攻撃を行った。当時、明石全登は大阪城におり不在だったため守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。 遅れて予定通りに進軍していた浅野長晟は蜂須賀至鎮の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとして多数の溺死者を出してしまい、戦闘にも間に合わなかった。 鴫野の戦い        幕府軍                 豊臣方       上杉景勝                井上頼次【戦死】       丹羽長重                大野治長       堀尾忠晴                竹田永翁       榊原康勝                渡辺糺        6300                                                                        2000+援軍12000 大阪城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田園という地形だった。 豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置し、井上頼次に兵2000で守らせていた。 徳川家康は今福村に砦を築くため、今福・鴫野両柵の奪取を命じた。 鴫野へは上杉景勝勢5000、後詰として堀尾忠晴・丹羽長重・榊原康勝が向かった。 11月26日早朝、上杉景勝が鴫

平知盛

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平知盛 氏族 桓武平氏維衡流【伊勢平氏】 父母 平清盛・時子 兄弟 平重盛・平基盛・平宗盛・徳子・盛子・平重衡・完子・平知度・平清房・御子姫君 妻  治部卿局 子  平知章・平増盛・平知忠・平知宗・中納言局 平氏全盛期 仁平2年[1152]、父清盛35歳の時に継室・時子のを母として生まれる。 同母兄の平宗盛6歳、異母長兄の平重盛15歳。翌年に平忠盛が死去し父清盛が平氏の棟梁となる。平治元年[1159]1月、8歳で従五位下となる。同年12月の平治の乱で清盛が勝者となり平氏一門と共に栄進していく。 永歴元年[1160]2月、武蔵国が知盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。 その後8年間同職にあった。武蔵国は河内源氏の勢力が強い地域であったが、平家家人を多く獲得した。 治承2年[1178]10月、同母姉妹である安徳天皇を出産、12月に立太子した。 治承3年[1179]2月、藤原殖子を母とする高倉天皇の第2皇子・後高倉院が誕生し、知盛に 養育が任された。 治承3年[1179]閏7月、平氏棟梁であった平重盛が死去した。異母兄平宗盛が新たな棟梁となり、知盛は同母弟平重衡と共に平宗盛を補佐する。 同年11月14日、後白河院との対立が頂点に達した清盛は数千騎の軍勢を率いて 治承3年の政変 を起こし、後白河院政を停止、名実ともに権力の頂点に立つ。 治承・寿永の乱 後白河法皇の第3子、以仁皇と源頼政は後白河法皇をの政治を復活させるため挙兵。 治承4年[1180]5月21日、以仁皇の配流が決定され、21日には知盛は園城寺攻撃の大将軍の 一人となる。反乱は平重衡・平維盛らにより短時間で鎮圧された。75歳の源頼政は宇治の平等院で自害し、17歳の以仁皇も逃げる途中、奈良で討ち取られた。 同年8月、源頼朝が挙兵し、10月の富士川の戦いで平維盛率いる平家軍は頼朝に大敗を喫する。 清盛の死と反乱の激化 同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した清盛の名により、知盛は甥・平資盛と共に 大将軍として出陣し、京都近郊の反乱軍を鎮圧した。 同時期に平重衡による南都焼き討ちがあり、反平家勢力は鎮圧された。 清盛は平宗盛を中心とした大規模な東国追討軍の派遣と、平重衡の九州派遣の作戦を考えていたが、治承

一ノ谷の戦い

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一ノ谷の戦い前哨戦 寿永3年[1184]2月4日、源範頼が大手軍56000騎を、源義経が搦手軍10000騎を率いて京を出発し摂津へ下った。平氏は福原に陣を敷き、その周りに強固な防御陣を築いて待ち構えた。 同日、搦手軍を率い丹波路を進んでいた義経は、播磨国三草山の戦いで、平資盛・平有盛の陣に奇襲を仕掛け、勝利する。 進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越で軍を二分して、 安田義定・多田行綱らに大半の兵を与え平通盛・平教経の10000騎が守る夢野口へ向かわせた。 一方、義経は僅か70騎だけを率い、西へ転進した。 開戦 生田の戦い  2月7日払暁、熊谷直実・熊谷直家・平山秀重ら5騎が西城戸に名乗りを上げて、合戦が始まった。 5騎は平氏の兵に囲まれるが奮戦。しかし、兵力差は明らかで討ち取られそうになった時に土肥実平率いる7000騎が駆けつけ激戦となった。 午前6時、平知盛・平重衡の平氏軍主力が守る生田口には、範頼率いる梶原景時・畠山重忠以下、大手軍50000騎が布陣。平氏軍は白兵戦を展開。範頼軍は河原高直・藤田行安らが討たれ、死傷者が続出し攻めあぐねた。しかし、梶原景時が奮戦し平氏軍を押し返した。 義経と分かれた、安田義定・多田行綱も夢野口を攻撃する。 生田口・塩田口・夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏側の守りが堅く突破できなかった。 逆落とし 精鋭70騎を率いる義経は、断崖絶壁を駆け下りる決断をする。   鵯越の逆落とし 崖を駆け下った義経たちは、平氏の陣に火を放った。予想もしなかった方向からの攻撃で 平家の陣は大混乱に陥った。 平家の兵たちは我先にと海へ逃げ出した 。 平家敗走 混乱が波及して、平忠度が守る塩田口も突破される。 生田口では副将の平重衡が 8000騎を率いて、安田義定・多田行綱に攻められ、窮地に陥っていた夢野口を救援に向かった。午前11時、範頼は大手軍全軍に総攻撃を命じた。 平知盛は奮戦するが、支えきれなくなり遂に、敗走を始めた。 沖合いの船にいた、安徳天皇・建礼門院・総大将 平宗盛は敗北を悟り屋島へと向かった。 平忠度は逃げようとしていたところを、岡部忠澄に組み伏せられ、討ち取られた。 合戦の一番乗りである熊谷直実は、敵を探していると、馬に乗っ

信長を11年間苦しめた石山の戦い

本願寺挙兵 永禄11年[1568]、将軍足利義昭を奉って入京した時、石山本願寺に軍資金として五千貫を 差し出すように命じた。本願寺第11代法主、顕如はこれに従ったが、信長が本願寺寺地に城を築きたいから明け渡せと言って来た時は拒否した。信長は、中国四国征伐を進めるにあたり瀬戸内海航路に便利な本願寺の地が欲しかった。 しかし元亀元年7月、顕如は阿波の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と手を結んだ。三好三人衆は13000の兵を率いて、天満の森に陣を張り、野田・福島の砦を固めて、 信長に反撃する構えを見せた。8月20日に岐阜を出発し25日河内に入り石山本願寺を取り囲んだ。顕如が紀州の門徒衆に出兵を言い渡したのは9月5日。翌日には全門徒に檄を飛ばし信長を滅ぼすよう命令した。もし協力しない門徒がいれば、長く門徒を破門すると記されていた。当時破門というのは、必ず地獄に落ちてしまうだろうと言われ、門徒達にとってはとても恐ろしいものであった。 全面戦争 9月12日、本願寺は信長に対して兵を起こした。16日には、浅井長政・朝倉義景が30000の軍勢を率いて比叡山に陣を敷いた。戦いは一進一退だったのだが、信長が浅井・朝倉に手一杯の時、伊勢長島一向一揆が始まった。一揆勢は尾張小木江城を陥落させ、城主で信長の弟の織田信興を、11月21日に自刃させた。追い詰められた信長は、正親町天皇や将軍 足利義昭に頼み、石山本願寺・浅井・朝倉と和議を結んだ。 信長 ようやく長島一向一揆を下す。 元亀2年[1571]5月、信長は伊勢長島一向一揆を攻める。 しかし、このときは迎えうつ下間豊前の戦術に陥り、氏家卜全はは戦死、柴田勝家は負傷し手痛い敗北を味わった。信長は門徒に対しさらに憎悪を燃やし、比叡山を焼き討ちにした。 このとき信長は最大の危機が近づいていた。甲斐の武田信玄が45000の大軍勢を率いて西上してきたからだ。 だが信玄は悲願の天下を取る前に、天正元年[1573]4月、信州駒場で没した。 最大の危機を戦わずして乗り越えた信長は、同年9月、信長は60000のの大軍勢で、2度目の 伊勢長島一向一揆討伐を始めた。本拠の長島城を攻める前に、支城がある桑名方面の門徒や土豪たちを全滅させようと考えた。北伊勢方面の門徒達は城や砦にこもって

長篠の戦い 意外な武田軍最大の敗因とは

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長篠の戦い、その真実とは 前回 「新説⁉︎ 長篠の戦い」 新説⁉︎ 長篠の戦いdensetsunokishiou.blogspot.com 見てない方はこちらから見るのをオススメします。 前回の話の続きなので理解しておいた方がわかりやすいです。 追い詰められる長篠城 天正3年5月1日、奥平信昌・松平景忠らが籠城する、長篠城を包囲した。 武田軍は、竹束をもって仕寄をつけ、昼夜を分かたず城を攻めた。 勝頼は、医王寺砦を本陣とし、長篠城を見下ろす大通寺、天神山、篠場野、岩代、有海 などに軍勢を展開させ、城を完全に包囲した。また付城として、鳶ヶ巣山砦【武田信実】 、姥が懐砦【三枝昌貞】、中山砦【那波無理助】、久間山砦【和気善兵衛】、君ヶ伏床砦 【和田信業】に軍勢を配置した。 武田軍が長篠城を攻撃を開始した頃、信長は河内で三好氏、石山本願寺と対戦していた。この時信長が動員した兵力は、畿内近国から100000余にのぼり4月14日には石山本願寺を 攻撃した。4月17日には和泉国堺に近い新堀城を陥落させ、三好家臣、香西越後守・ 十河因幡守・三木五郎大夫ら170余人を打ち取った。このため、高屋城に籠城していた 三好康長は抵抗を諦め、降伏した。こうして長期に及ぶと思われた三好氏・本願寺との 合戦はわずか半年で終了し、4月21日には信長は京都に引き上げた。 この間、武田軍が三河の諸城を攻め落とし、選曲が有利であるという情報は畿内近国にも届いており、六角承禎は5月4日付の穴山梅雪宛書状でこれを喜んでいる。 信長は、4月27日に京都を発し、4月28日には岐阜に帰陣した。越前一向一揆は今回の、 武田軍の動きには、呼応しなかったので、越前方面から前田利家らを召集し、合流させた。浅井・朝倉両氏を滅ぼした信長は相当数の兵力を武田攻めに動かすことが可能となった。 一方の勝頼は、先代信玄以来の強敵、上杉謙信を背後に抱え、その抑えとして武田軍では最大規模を誇る、川中島衆を海津城代、春日虎綱とともに残留させねばならなかった。 信長動く 5月13日、岐阜を出陣した信長は、5月14日、三河岡崎城に入場した。 長篠城では、武田軍の激しい攻撃が続いており、長篠城兵はついに本丸まで追い詰められた。城主奥平信昌は鳥居強